受賞者紹介

平成25年度 社会貢献者表彰

社会貢献の功績

うつしかわ じろう

移川 仁郎

(宮城県)
移川 仁郎

気仙沼市の三峰病院の院長であり、第二次大戦中、軍医としてフィリピンのケソン州インファンタに従軍し、部隊唯一の生還者となったことから戦後慰霊のため同国を訪れ、30年以上にわたり同地区の村々に小学校の建設、井戸や水道施設の建設、医療器具や薬、無料診療などの支援を現在も実施していた。また人材育成のため奨学金制度も設けており、毎年現地を訪れ、進めている事業の様子を確認し、奨学生候補者の面接やテスト自ら赴き立ち会った。これらの支援活動は殆ど私財を投じて行なわれた。同地区は戦後入域が困難となっていたが、移川さんの奉仕活動などの結果、今では親日友好の地区となっている。

推薦者:河村 俊郎

移川仁郎氏のインファンタ地区(フィリピン)の活動について

フィリピンでの活動の様子
フィリピンでの活動の様子

第二次大戦に於いて、フィリピンでは、多くの人々に多大な犠牲者が出て、今もって心が痛む。

フィリピン全域での戦没者は、邦人を含め他を上回り最も多く51万8000名と言われている。

移川氏は第2次大戦末期の昭和19年後半期、マニラ防衛隊の軍医として海没負傷兵の手術、治療に不眠不休で当られていた。

その後、日米軍の凄惨な市街戦となったマニラから脱出してマニラ東方の山地(マッキンレー)で負傷兵の手当にあたった。

この地での振武集団の最期は、悲惨を極めた。インファンタ地区には、まずマニラ市街戦で本隊と切り離された南部の陸戦隊7000人が、マニラ東方海軍防衛部隊に再編されて集結した。米軍はマニラ攻略後、その矛先を東方に向け攻撃を開始。これに併ない残存の海軍部隊は、逐次ルソン島の東海岸のインファンタ地区に向い、持久戦に入っていた。米軍の直接の攻撃は無かったが、一帯は米比軍ゲリラが多く常時小戦斗が続いていた。

移川さんを歓迎する子供たち
移川さんを歓迎する子供たち
移川さんを歓迎する子供たち

8月15日、同地での移川氏の部隊は夜間、強力なゲリラに急襲された。移川氏は幸い連絡の為この駐屯地を離れていたため難を逃れたが、翌日帰隊して見れば正に地獄の様相で殆どが戦死、残ったのは、移川氏一人であったという。

 

負け戦になっての飢餓地獄は、どこの戦場も同じだが、マニラ東方山地は、それが取り分けひどかった。山は深いけど北部ルソンの山岳地帯に比べれば狭い地域である。そこへ一度に米軍の大軍に追われた敗残の軍が、入り込めばどうなるか目に見えている。マニラ市街戦を含め振武集団地区での戦没者は、最終的に9万9千人に達したとされる。

9月6日太平洋岸インファンタ町で武装解除を受けたが、ここに着くまで路の両側に並んだ現地人の増悪に満ちた眼差しは、忘れられないという。そして乗せられた上陸用舟艇にはためく米国旗を見て「本当に日本は負けたのだ」と知った。更にカンルーバンの捕虜収容所まで乗せられた無蓋トラックに沿道から「バカヤロウ」などの罵声を浴びせられ、沢山の小石も投げられたという。その中で移川氏は、米軍に追われ、アゴス川流域をさまよい海軍部隊の軍医で、生死の境をさまよい奇跡的に生還した場所は、生涯忘れられないと語っている。

 

日本へ帰った後、いつかこの地を訪れ、ここで散華した戦友の慰霊をしようとつね日頃思っていた。そして、家族の反対もあったが60歳からは、フィリピンに斃れた英霊(戦友)に捧げる歳月をおくりたいと考えた。戦後36年の歳月を経た昭和56年11月、日比両国の関係改善を背景に、移川氏は治安の悪さをおかして、インファンタ地区に入り、巨勢隊等が居た山々が見えるアゴス川カナン川合流点の川原で、ようやく無念の涙をのんだ同胞を慰霊することができた。偶然にもここで寝泊まりした小学校で親身に世話してくれた地元の小学校校長は、元ゲリラ兵で、終戦の夜移川氏の隊を奇襲したことを知らされた。戦時は敵で、今日は友人となった。

毎年の軍医仲間と2人、時には、ご遺族の方といっしょに現地を訪れ、祭壇を作り、日本の煙草、酒、菓子などを供え線香に火を点し、読経のもと手を合わせ慰霊した。現在でこそ道路も良くなり、治安も回復しているが、最初の訪問時は、まさに命懸けであった。

以来35年、小学校の先生との人間関係から始め、村民の治療、水道施設、学校の再建等インフラを私財を投げ入れて奉仕してきた。この結果、村民との深い絆を作り、インファンタ地区にとっては移川氏はなくてはならぬ存在となっている。

現在、一応の村々のインフラは整い教育も盛んになり、移川氏はそこで、地区の青少年の教育のため奨学金制度を創設。生徒の選考委員会(地区の有識者数名)を年1回、直接現地で高校、大学への希望者の選定をし、88名の大学生を卒業させている。また気仙沼市とインファンタ地区の小学校の交流も30年近く続いている。

移川氏の遺したインファンタ地区の戦没者への想いから始まった犠牲的奉仕の精神とその業績の実りは、永遠に地区の人々の心に深く残る事と信じる。そして日比のこれからの友好的発展に多く寄与する事と思う。

 

(移川仁郎氏が入院中のため、推薦者の河村俊郎氏と慰霊の協力者である倉津幸代氏により移川氏の活動についてまとめていただきました)

  • 移川仁郎氏
    移川仁郎氏
  • 院長を勤める病院前で
    院長を勤める病院前で
  • 現地の景色
    現地の景色
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