受賞者紹介

平成24年度

東日本大震災における貢献者表彰

ヘンドリッキ ウベルト マリオ ゴンザロ リンデラウフ

Hendrik Hubert Maria Goncalo Lindelauf

(30歳:東京都東村山市)
Hendrik Hubert Maria Goncalo Lindelauf

4年前から東京学芸大学にブラジルから留学、震災後も原発の危険性から両親から帰国を促されるが、日本に残り、岩手県大槌町の被災地に赴き、4月末まで滞在。瓦礫撤去など復興活動を続ける一方、自らを"ブラジル忍者"と称して子供達の輪に加わり皆を和ませる。再び5月から大槌町に入り復興活動に尽力。

推薦者:母と学生の会時習学舎 関根 福子

3月11日に東日本大震災が起きた時、私の人生も含め、全国の国民の人生が変わった。

特に当時、日本にいた外国人の人々が、原発に関する正しい情報を把握していなかったため、皆の心は辛い不安で染められた。

日本の政府が市民を安心させるため、わざと原子力発電力所の緊急事態と恐ろしい状況を隠しているではないだろうかという噂まで流れていた。

一方私の国を含め、大げさなニュースが、世界中でたくさん報道された。

そんな状況下で、多くの外国人は、自分自身が非難するためもしくは、自分の家族を安心させるために、帰国してしまった。

私も、酷いジレンマと闘った。私の父親、母親そして、姉が毎日連絡をくれ、その度に三人ともが泣きながら「帰って来い!」といつも頼んできた。そして、航空券まで買ってくれた。

私の母は、あまりのストレスと心配で一週間以上、一睡も眠れなかった。いつも電話で、「私の可愛い息子!帰ってください!」と言ってきた。生まれてから31年間、あそこまで切に「私の可愛い息子」と呼ばれたのは、初めてだと思う!!!(笑)。

酷いニュースが流れる度に、母の健康状態が悪化したので、母を落ち着かせるために、一時帰るかどうか、大変悩んだ。

しかし、私を快く歓迎してくれたこの国には、私がいつも困った時に、支えてくれた日本人の友達がいるし、なにより私は、子供のころからずっと日本のことが大好きなのだ。

だから、日本が一番救助を求めているときに、私が帰ったら、多分一生、自分を許せなくて後悔すると思った。だから、なにかせざるにはいられないと思い、被災地に入るのを決心した。

高い航空券を買ってくれたことは申し訳ないが、帰るのを断って、母に「この国と友達に、恩返しを出来る時期がやっと来た。」と言った。

おそらく神様のおかげかもしれないが、私の家族が大変落ち着いて、私の気持ちを理解してくれた。

次の日、母がメールで「ヘンドリッキ、お母さんの我侭を許して下さい。今は逃げるときじゃない!自分の大好きな人達と、大好きな国のために戦ってくれ!!!何があっても、いつまでもあなたは我々(お父さんとお母さん)の誇りだ!」と励ましてくれた。

津波による凄まじい状況の
大槌に言葉を失くした

そうして、私も安心して、3月30日に津波の被害を大きく受けた、岩手県の大槌町に入った。

活動は、主にいくつかの避難所にいた子ども達に対応する活動だったが、炊き出し、力仕事なども行った。

私はもともと子どもが好きで、時々近所の子ども達と遊んだりもし、また保育園で暫くバイトしたこともあるので、子ども達のために力を貸したかった。

子どもを支援する団体と被災地に入った時、避難所の人々は、ピリピリしていたことは心構えをしていた。被災地に入ったら、ストレスがたまっている人達に、きついことをいわれる覚悟もしていた。

しかし、すぐに子ども達と仲良くして、いつも抱っこしていた。避難所の人々は「ごくろうさん!ありがとうございました!」といつも優しく挨拶をしてくれたので、非常に感動した。

さらに、炊き出し、物資分配のときに、皆は暴れずにちゃんと並んだり、必要な物資だけを貰ったりし、また学年の上子どもが下の子ども達に譲ったり、世話したりするのは、いまだに私の心に残っている素晴らしい光景だった。それだけ、団結力はとても凄まじかった。

私の活動は基本的に"人間を扱う"活動だったので、被災地にいればいるほど、少しずつ地元の人と絆を築いてきた。

四月ごろ、まだ自衛隊が逞しく頑張っていたが、周りの風景はやっぱり言葉で説明出来ないほど、壊滅的な風景だった。正に戦争の跡の風景だった。

余震はまだ暫く続いていた。余震が起きると、何人かの子どもに、異変があるのに気づいた。ただ、普通の子どもが持っている地震に対して怖さだけではなく、神経質でちょっとトラウマ残っている反応であった。

私は長く被災地にいたので、積極的にコミュニティーに受け入れてもらった。結局、私はコミュニティーの一員という気持ちが、私の中から溢れてきた。

時々、用事のため一時的に東京に帰ったりしていたが、でも皆と別れたら、寂しさに負けて、すぐ被災地に戻った。

時間が経って、被災者が普段の生活に少しずつ戻るとともに、私と仲良くしていた子どもたちと地元の人が、津波のときの物語を各々打ち明けたりしてくれた。勿論、私も色々仲良くした人達に打ち明けた。

外国で経験があまりない日本人は多分、復興が物凄く遅いと思っているかもしれないが、私が被災地に入ってから、僅か3、4ヶ月だけで、あんなに早く変わったのは流石、日本だと思う。

自分の国と比較すると復興が物凄く早い。ブラジルにいる友達に、4月ごろ被災に遭った町の写真と7月ごろの同じ場所の写真を送ると、皆がびっくりして「ありえない!被災に遭った町がこんな早く復興するのはありえない!」と言われた。

私の父はオランダ人で、彼によると「オランダでのニュースも復興に関して、褒め言葉が多かった」と言った。そういう意味で日本はとても模範的な国だと思う。

でも、経済、復興の話などを別にして、今回の被災は、(良い意味で)皆のいい勉強になった。

電気の節約、困難な時の決断力、会ったこともない人達とお互いに励ます気持ち等。

嬉しい時に一緒に笑ったり、辛い時に一緒に泣いたりするのは、大事な勉強でそれぞれが人間として大きな成長したと思う。

勿論、私とっても今までの人生で、一番大事でありがたい勉強になった。被災地へ行く前に、私は個人的問題、ジレンマなどで凄く悩んで、落ち込んだりしていた。頑張る気も段々なくなっていったが、被災地で家または大事な親戚などが流された人など、そもそも私より1000倍ぐらい悩むはずの人々が沢山いて、物凄く反省した。

なぜなら、あれだけの状況にあっても、頑張りながら希望などを失っていなかった人と沢山出会ったからだ。

今回の受賞を喜んで受けるが、正直に言えば、私が助けるよりも、子どもから大人至るまで、皆にパワーを貰って、私が助けられたと思う。

被災者に「ヘンちゃん!!!頑張れ!!!」と励ましてもらった時、説明できないぐらいの感動と嬉しさのミックスが心に溢れた。

長い間「何で日本が好き?」と周りの人に聞かれたとき、私はちょっと迷って、実際に自分自身も何でこんなにこの国が好きか分からなかった。しかし、長く被災地にいて大槌町の人達と暮らしていたら、やはりこの国が好きというよりも、『この国にいる人達が好きだ』とやっと分かった。

 

皆は今も仮設住宅に入っているし、課題はまだ多い。皆はもとの生活に戻りつつあるが、時間が津波が残した傷を癒してくれる。

多分、残るのはあの時の希望、絆そして、どんな辛い時でも支え合う気持ちかもしれない。それは私の心からの願い。私は死ぬまで被災地の経験を忘れない。忘れたくもない。素晴らしい経験としていつまでも思い出す。

今年の夏にまた大槌町に行きたい。色々笑いながら、皆に暖かくハグしたいと思う。私の心には、皆がいつも一緒にいる。

 

感謝!!!感謝!!!感謝!!!

 

Muito obrigado a todos por tudo!!!

  • ヘンちゃんには負けられない!
  • 折り紙でお弁当作り
  • 主に子どもたちのために活動した
  • 頑張りまっす!
  • 祭りにも参加
  • 日本男児に変身