受賞者紹介

平成24年度

東日本大震災における貢献者表彰

むらおか まさあき

村岡 正朗

(50歳:宮城県気仙沼市)
村岡 正朗

気仙沼市仲町でクリニックを開業していたが、震災により自宅とともに全壊となり、気仙沼中学校(避難者約1,200人)に避難した。即時同校の保健室を借り、保健室に寝泊まりしながら24時間態勢で被災者の医療救護活動にあたった。同校に隣接した別の避難所の診療にも当たり、震災10日目からは往診も再開した。また震災前から在宅医療に取り組んでいことから、避難所以外で生活する高齢者などを支援するため、各地からの支援医師、看護師らとともに「気仙沼巡回療養支援隊」を結成し、手腕を発揮した。

推薦者:社団法人 気仙沼医師会 会長 大友 仁

東日本大震災での避難所、救護活動で感じたこと

村岡先生

医療活動:私は津波発生時には高台の避難場所にいて津波の様子を見ていました。直後よりびしょ濡れになった被災者が数人運び込まれその対処に追われましたが、濡れた服を脱がせ備蓄されていた毛布等でくるむことで対処できました。他には数人の打撲や四肢を骨折した被災者が来ましたがあり合わせの物で固定し対処できました。明るいうちに避難所にたどり被災者は比較的元気な人ばかりでした。しかし、被災者は日が暮れるとぱったりと途絶えました。日が暮れてからは4歳の女の子がただ一人びしょ濡れで助け出されてきただけでした。その子は、徐々に呼吸状態が悪くなってきたために当日の深夜にヘドロの中を気仙沼市立病院へ連れて行きました。後日伝え聞いたところによると、直ちに気管挿管されレスピレーター管理となりましたが現在はただ一人生き残った祖母と元気に仮設住宅で暮らしているそうです。翌日は夜明けとともに被災者が続々と避難所に来ました。翌日のほうが重篤な被災者が多かったような印象です。しかしながら、その重篤な被災者も昼ごろで途絶えました。津波を生き延びてもびしょ濡れで寒かったため夜のうちに低体温で亡くなったひとが多いようです。また、車での避難途中に津波で流されそのまま海へ流された人も多くみられました。12日の午後からは緊急の治療を要するような人はほとんど居ませんでした。日中、救護所に来る人は普段から服用している高血圧や糖尿病などの薬が流されたなどのひとが大半でした。日が暮れてから、救護所に来る被災者は不安感からか眠れない等が大半でした。それも、震災後4〜5日目に電気が回復し電燈がつくようになると激減しました。明るいということのありがたさを痛感しました。医薬品の供給に関しては、翌日に市内の開業歯科医の方より鎮痛剤と抗生剤の提供があり、また、市内の薬局よりOTCの風邪薬、湿布等の提供がありました。慢性疾患に対する薬などは震災後1週間目くらいからはあふれるように入ってきましたが、それまでは非常に心細い状態でした。この時ほど、お薬手帳等の薬剤情報の重要性を痛感したことはありませんでした。

14日ごろには陸上自衛隊が救護所を開設しました。これは、発電車も持ってきて電気が復旧していないにもかかわらずレントゲン撮影も可能な診療所テントを校庭に設置したもので自衛隊の底力を見せつけられた思いでした。震災後、数日からは市民会館には旭川医大の医療救護班、中学校には自衛隊とプライマリケア連合会からの医療救護班が日中は常駐するようになりましたが夜間は市民会館、中学校、隣の小学校の避難所を一人で診るという状態は最後まで続きました。